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サイト管理人のブログです。新しく入荷した作品や、アートに関する情報等を随時、発信して行きます。

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現代日本を代表する日本画家「中路融人」失われ行く湖北の風景を描く

中路融人「朝霧」紙本彩色8号/日本画

中路 融人(なかじ ゆうじん、1933年9月20日 - 2017年7月18日)

滋賀県の琵琶湖周辺を描いた風景画で知られる日本画家 中路融人(なかじ・ゆうじん)京都市に生まれた。

1954年に画塾の晨鳥社に入塾、山口華楊に師事。1956年日展初入選。1962年日展特選受章。1975年特選受賞。1995年日展文部大臣賞受賞。1997年日本芸術院賞受賞。2001年日本芸術院会員となる。日展常務理事、日本藝術院会員、晨鳥社会長を歴任、後進育成にも尽力した。2012年に文化功労者。

1973年雅号を勝博(本名)から融人に改め、母親の故郷であった五個荘に幼少期より度々訪れ創作の原風景として湖国を愛し、湖国を描い湖岸に立ち並ぶ木々など幻想的な自然風景を柔らかな色彩で描き続けた。

多年にわたり失われていく湖北風景を愛し風景画を制作した。自然の美しさを素直に観察したこまやかな美しさがに定評があり、現代日本を代表する日本画家で最も人気が高い人物の一人であったが、2017年7月病気のため京都市内の病院でおしまれつつも83歳で没した。

幻想的な水墨画の雰囲気の中にモダンアートを感じさせる独特の作風で、見る人を不思議な世界に誘い込む中路融人は今後もっと評価されてよい日本画家の1人と思う。

中路融人美術館 https://e-omi-muse.com/nakajiyujin/creator.html

2017年08月01日

没後100年「五姓田義松」特別展

 

|まるで大河ドラマの主人公!? 明治の洋画家・五姓田義松

日本人ではじめてフランスのサロンで入選を果たした画家をご存じでしょうか? 藤田嗣治? いえ、フジタが生まれるよりもさらに前、1855(安政2)年生まれの一人の青年画家がフランスへ渡り、サロンで入選を果たしています。五姓田義松、25歳です。

多くの方が、まず名前の読み方でつまずきそうな五姓田義松(1855〜1915)。「ごせだ・よしまつ」と、読みます。わずか10歳で英国人報道画家チャールズ・ワーグマンに入門。明治10年の第一回内国勧業博覧会に油彩画を出品し、最高賞を受賞。翌年には明治天皇の御巡幸に、画家として同行。さらに2年後、渡仏しサロンで入選。そして、イギリス、アメリカを巡りました。これが、驚くべきことに今から125年前の話です。まるで大河ドラマの主人公のように、劇的な人生。この五姓田の展覧会がこの秋、彼が暮らしていた横浜で開催されます。

|五姓田義松の超ド級展覧会に、専門家&アーティストも期待!

神奈川県立歴史博物館で開催される「五姓田義松 最後の天才」展は、歴史に埋もれた画家・五姓田義松の全貌を紹介する展覧会です。前・後期の展示替えで、出品点数は脅威の800点!建物が国の重要文化財・史跡にも指定されている歴史博物館で、文明開化の横浜から世界に羽ばたいた青年画家の画業をたどります。

|この期待の展覧会に、美術界の大御所も注目! 

この展覧会の会期中に、4回にわたって開かれるレクチャー講師陣の顔ぶれが、とても興味深いのです。第1回目のレクチャーを担当するのは、多くの美術書の著作で知られ、東京大学教授や国立西洋美術館館長の職を歴任し、文化勲章も受章した美術史界の重鎮・高階秀爾氏。

第2回目は、硬派な公務員研究者でありながら、ときには裃(かみしも)のコスプレで来館者をおもてなしする当館の名物学芸員・角田拓朗氏が担当。第3回目のレクチャーは、いまやテレビや新聞、雑誌でもひっぱりだこ、古美術から現代アートまでをユニークな視点と語り口で縦断する「日本美術応援団」の山下裕二氏。 そして最終回は、なんと現代美術家の小沢剛氏が登場します。野菜を組み合わせた機関銃の作品などで知られる。

3回のレクチャーが美術史の研究者であるのに対し、現代を生きるアーティストの視点から五姓田の実像に迫ります。没後100年目の五姓田とバーチャル対談するかも......という噂も!?

特別展 没後100年 五姓田義松 ─最後の天才─
会  期:2015年9月19日~11月8日
会  場:神奈川県立歴史博物館

URL:http://ch.kanagawa-museum.jp

本文は創造力を社会に生かすアートニュースサイトBitechoから引用させていただきました。
http://bitecho.me/2015/06/23_69.html

2016年10月02日

類い稀なる色彩感覚と造形美!「WATAMAKO」

 

あなたは”Watamako”というアーティストをご存じだろうか。若いながらもすごいパワーを秘めた作家です。 類い稀なる色彩感覚と造形美で見るものを圧巻。色の洪水、溢れ出すパワーは、数学教師の経験から相対性理論からインスピレーションを得て物理学と絵画の融合を試みた秀作です。この作品は「愛の調和」と題され人の愛を描いている。これからの活躍が期待される新人画家です。

2016年10月02日

色鉛筆の魔術師「森 千広」

 

鉛筆画家として歩む森 千広。その繊細な筆致で人物を描く。世界が現代の日本文化と位置づける「コスプレ」などをモチーフに、色鉛筆にこだわり細部まで丁寧に描く。また単に表面的な描写にとどまらない内面的な美しさが見る者の心をとらえる。色鉛筆の魔術師!自信を持ってお薦めします。

2016年10月02日

日曜美術館で報道されなかった山への想い「一原有徳 」

 

NHK 日曜美術館で一原有徳という版画家が紹介された。世界的には注目されているというもののその評価はまだまだ低く、一部のマニアを除き日本国内ではほとんど認知されてこなかったといっても過言でない。

一原有徳といえば北海道というイメージがあるが生まれは徳島県である。幼児期に両親に連れられ羊蹄山の麓、真狩村に入植した一原家は、電気もない掘立小屋に住み、蕎麦や馬鈴薯を栽培し細々と生計を立てていた。父、周二は農業の傍ら毛皮の行商をしていたが1923年小樽に移住後は、労務者として働く一方で花火師として副業もしていたというから、決して裕福な家庭環境ではなかったといえる。

そんな中、有徳は小学校卒業後、北海道通信社に就職。働きながら夜学の小樽市高等実修商業高校にも通い、その実直な勤務成績から逓信省小樽郵便局に採用された。1944年6月、35歳の時に招集され札幌月寒や日高沿岸で兵役する。その後、広島の船舶司令部、暗号教育隊に転属したが暗号情報の中に小樽が8月17日に原爆投下されるというのを目にして戦慄したという。

兵役による中断があったものの1970年までの43年間小樽貯金支局で勤務した有徳は、昇進、転勤等の話を固辞し定年まで働きつづけた。卒寿記念として戦前戦後の波乱の人生を描いた自伝「一原有徳物語」が刊行されているので興味のある方は読んでもらいたい。波乱万丈の人生を歩んだ一原有徳の生涯を、NHKで是非ドラマ化してもらいたいものである。 さて日曜美術館では、作画という意図を持たない抽象作品ばかりが紹介されていたが、実はこれと並行して全作品のおおよそ1割以下と思われる「山」をテーマとしたシリーズを制作しており、ここに意図的具象作品が存在しているという事実を伝えたいと思う。

有徳と山のかかわりは、職場の仲間とともに山岳部を作り、近郊の登山やスキーを始めたことがきっかけであり、1931年頃からARCG(赤岩ロッククライミンググループ)を組織すると、それまで北大山岳部がルート開拓していたものの系統的に岩場が紹介されることは無かった赤岩山を紹介した。1960年「北海道の山」を出版。その他「支笏湖の山」、「道外の山」等を刊行した。自分たちが登った山の経験をもとに書いた内容が評価され、これを機に北海道での登山が盛んになったといわれている。

有徳にとって山岳シリーズは趣味的な世界であったかも知れないが、抽象画家といわれる有徳の別の一面を垣間見ることができる貴重な作品群である。版画といっても1点ものでありその制作数は極めて少ない。画面からは山に対する作家の想い、愛情が伸びやかで生き生きと伝わってくる。 しかし、なぜかこれら山岳版画作品は有徳の作品集に掲載されていないのである。有徳の山岳作品は愛好家のなかで定評があり、過去の個展で真っ先に売れるのは、本来の抽象作品ではなくこの山岳シリーズである。

山岳シリーズが公開されてこなかった原因として、作品の絶対数が少ないこと、個展で購入した人が手放さないことによるものではないかと推察され、いわば幻の作品といえると思います。

今回ご紹介する作品はそんなわずかに制作された幻の山岳シリーズ及び、抽象版画作品であり今後手に入れることが難しくなるものと思います。

<引用文献:山書趣味「特集:一原有徳の世界」より>
https://sub-tac.ssl-lolipop.jp/cgi-bin/shop/main.cgi?class=6&word=&datasort=1&FR=0&FR=5&NP=1&TOTAL=9&enumber=5

2016年10月01日