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電話でのお問い合わせはTEL.075-594-3333

〒607-8131 京都市山科区大塚南溝町36-12
  

 

当ギャラリーが取り扱っている作家をご紹介します。お問合せは こちらからどうぞ。

物故作家を中心に名声や画壇での地位に関係なく秀作密度の高い厳選した作品のみに絞ってご紹介しています。

浦久保義信 内田 巌 荒井龍男
村山 密 焔  仁 初代 広重
須田剋太 牧野邦夫 中山 巍
伊藤久三郎 原勝四郎 平野 遼
和田英作 佐分 真 三上知治
松下春雄  ・菅野圭介  ・中路融人
 ・寺内萬治郎  ・田村孝之助  ・中根 寛
 ・斎藤真一  ・琴塚英一  ・松田正平
 ・島田しづ  ・彦坂尚嘉  ・元永定正
     

浦久保義信(1903-1988) 池袋モンパルナスの異端作家
 
「雪山と馬」油彩/8号/板

◆浦久保義信

池袋モンパルナス伝説の異端画家 浦久保義信の作品です。
早くから三岸好太郎や小熊秀雄らにその画力を認められつつも、その異端ぶりから画壇と疎遠になったため作品自体滅多
に見ることができません。
実力がありながら歴史の陰に埋もれた異端画家の油彩作品です。

◆画歴
1903年奈良市生。郡山中学を中退し上京。渡英のち滞仏し
1923年に帰国。
三岸好太郎らに認められ春陽会、二科展に出品。1932年より
独立展に出品、35年に独立賞。38年独立会友。その後、画壇
から疎遠となる。
※参考文献:宇佐美承『池袋モンパルナンス』

◆収蔵
練馬区立美術館

◆内田  巌(1900-1953)
 
「婦人像」
油彩/3号/板



 「瓶花」
油彩/6号/板


 
「パイプ」
油彩/3号/キャンバス


「パリ風景(赤い屋根)」
油彩/8号/キャンバス/ 1931年頃(昭和6年頃滞欧作)


「風景」
油彩/4号/板


「岩岳」
油彩/25号/キャンバス/1940年(昭和15年作)
※皇紀2600年京都市奉祝展出品作

◆画歴
1900 随想家内田魯庵の長男として東京に生まれる。
1921 東京美術学校西洋画科へ入学。一つ下に、猪熊弦一郎、小磯良平、荻須高徳、山口長男らがいた。
1923 藤島武二に学ぶ。
1925 前田寛治と出会い強い影響を受けた。
1926 東京美術学校を卒業、東京美術学校研究科へ進み翌年終了し吉居静と結婚。
1931~32 渡欧、アカデミー-ランソンで学ぶ。
1936 猪熊弦一郎、小磯良平、脇田和らとともに新制作派協会の創立に参加。
1939 日動画廊で「内田巌近作発表展を開催。本を持つ子
供、子供の群、子供たちと青い空など子供を題材とした作品
を多く発表する。
1945 騒々しい都会の生活を離れ毎日、山歩きや、好きな
絵を書いたり酒を飲んだりゼンマイやワラビを取りなどの生
活を送る。
1947 賓雲舎より「人間画家」を出版。その後、みづゑ、三彩等に多く美術に対する執筆、出版を行う。
1953 癌により東京世田谷の自宅にて死去、53歳の生涯を閉じた。渋谷公会堂で告別式が行われる。

代表作「風」。又、制作のほかに評論活動もおこない著書も多く「人間画家」、「絵画の倫理」、「美とヒューマニズム」などがある。

◆焔 仁(1948-現存)
 
「のこり火」油彩/M15号/キャンバス
1977年作/三越出品作/"焔仁"画集掲載作品

◆焔 仁(ほむらじん)美術館
http://www.hidatakayama.ne.jp/j-homura/

 画家「焔仁」氏が本村木谷集落に住み、広い合掌造りの空間をアトリエとして個性豊かな作品を生み出している。氏は作品とともに美術館を村へ寄付し、村は平成8年から運営している。

◆画歴
1948 静岡県に生まれる。パリ大学を卒業してル・サロン展
に出品。
1969 コペンハーゲンにて初個展開催
1970 日動画廊で個展開催
1979 岐阜県大野郡白川村に合掌造り 焔仁美術館開館
1995 パリ・エリーゼマティニョン画廊にて個展
1996 岐阜県大野郡に焔仁美術館開館
2001 ウォルターウィッカイザーギャラリーにて個展(ニューヨーク)
2003-2005 アートマイアミ出展(マイアミビーチコンヴェンションセンター)
2006 ウォルター・ウィッカイサーギャラリー、移転オープニング記念展に出品(ニューヨーク)
2010 岐阜県美術館にて「燃え立つ魂 焔仁展」

◆収蔵
笠間日動美術館,北九州市立美術館,デンマーク王室コレクション,パリ市近代美術館,フランス大使館,比叡山延暦寺国寳殿等に作品収蔵

◆荒井龍男(1904-1955)
 
「巴里風景」油彩/F4号/1936年作

東京銀座三越「滞欧作展」出品

幻の画家、荒井龍男(あらい たつお)の名前を知っている人は無類のアートコレクターと思います。
1904年大分県に生れ1932年二科展に初入選、1934年渡仏パリのアカデミーグランド・ショミエールに学びオシップ・ザッキンに師事。1936年サロン・ドートンヌに出品し受賞。また銀座及び朝鮮京城の三越にて滞欧作展を開催。1937年帰国後、山口薫らと共に自由美術家協会を結成。アンデパンダン展に出品。
その後、東京・大阪の画廊にて個展を開催。1952年海外での個展のため旅立ち1953年~54年にかけリバーサイド美術館、サンパウロ美術館、ブリジストン美術館等にて精力的に個展を開催。翌55年、志し半ばにして病に伏し長女の誕生と入れ替わるようにわずか51才という短い生涯の幕を閉じました。
没後、国内外で死を惜しむように遺作展が次々と開催されました。また1991年には目黒区美術館にて「荒井龍男展」が開催され「荒井龍男作品集」が目黒区美術館(美術出版社)より発刊され注目を集めました。なかなか作品に廻りあうことが出来ない画家の一人。

◆初代歌川広重(1797-1858)
 
初代広重 オリジナル木版画
江戸期 33.4cm×11.4cm

江戸八代洲河岸の火消屋敷に生まれる。幼少より絵を好み、文化8年、15歳で歌川豊広の門下に入り、画名を広重と名乗る。
はじめ役者絵、やがて美人画を描くが文政中期より風景画に興味を抱く。天保4年から5年にかけて発表した「東海道五拾三次続絵」で風景画家としての地位を不動にした。現在では、風景画家として世界的な評価が与えられ、北斎とともに幕末の2大巨匠とも呼ばれている。
歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。この鮮やかな青は藍(インディゴ)の色であり、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。
ヒロシゲブルーは、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因のひとつともされている。
ジャパンブルーとも呼ばれた鮮やかな藍色ブルーを上下に配し鳥の羽の鋭さと色合いはまさに日本を代表する浮世絵師としての面目躍如と言える作品と思います。小品ですが、江戸期のオリジナル版画であり貴重なものです。日本人の持つ技術力の高さと芸術性は、この時代に既に完成していたと思います。

■所蔵美術館
・東京国立博物館(東京都台東区)
・馬頭広重美術館(栃木県那珂川町)
・神奈川県立歴史博物館(神奈川県横浜市)
・中山道広重美術館(岐阜県恵那市)
・東海道広重美術館(静岡県由比町)
・広重美術館(山形県天童市)
・海の見える杜美術館(広島県廿日市市)
・メトロポリタン美術館(アメリカ合衆国、ニューヨーク)
・ボストン美術館(アメリカ合衆国、ボストン)
・ブルックリン美術館(アメリカ合衆国、ニューヨーク)
・ギメ東洋美術館(フランス共和国、パリ)
※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用


◆牧野邦夫(1925-1986)
 
「南京のキリスト(芥川龍之介作品より)のエスキース」
紙/鉛筆/1969年5月19日作/日本橋画廊シール
作品サイズ:47×32.5cm 額サイズ:65.5×50cm


<参考図版>
牧野邦夫「南京のキリスト」1969年(芥川龍之介作品より)

◆牧野 邦夫 《まきの くにお》

戦後の前衛的な美術の流れに背を向けるように美術団体に属さず、数年置きに個展で作品を発表し、光の画家と称される世界的画家レンブラントに影響を受けた画風を展開、全体的に背徳的なマチエールの中に一光を入れて光、闇両極ともに無くてはならない存在として主に人物画を表現した。
牧野画伯は大作の油絵制作にあたり、細密なデッサンによる下描き(エスキース)を行っており、この作品は50号の油彩画の傑作「南京のキリスト(芥川龍之介作品より)」に登場する女性像の下絵となるものです。
近年、回顧展が各地で企画され没後再評価され始めた不世出の画家といわれている巨匠です。そして、その真骨頂は確実な人体描写にあり美校では必要ないとまで言われた美術解剖学を、図書館や博物館に通って研究し、生命の存在感を確かめるように描き込みました。本作は牧野画伯の特徴でもある「物語に傾斜した濃密な画面」の一端が垣間見える秀作であると思います。


◆村山 密(1918-1993)
 
「パリの屋根」リトグラフ/ed100/作品サイズ:57×57cm


「パリ オテルドビル海岸(シテ島)」
油彩/キャンバス/20号/1967-69年作
作品サイズ:60.6×72.8cm Salon d'Asnieres出展
「村山密展」図録1掲載

村山 密 《むらやま しずか》

1918年 茨城県に生まれる
1942年 春陽会展覧会、文部省美術展覧会 初入選
1954年 渡仏
1962年 パリ16区主催風景画コンクールド・ゴール大統領賞受賞
1963年 サロン・ナシオナル・デ・ボザール, 外国作家賞受賞
1969年 アニュール展グランプリ受賞
1981年 サロン・ド・オンフルール, ウジェーヌ・ブーダン賞受賞,フランス国籍取得
1982年 アニュール展グランプリ受賞
1987年 モナコ王室主催国際現代絵画展, 宗教絵画特別賞受賞
1991年 パリ市ヴェルメイユ勲章(名誉市民賞)受賞, 第27回
茨城賞(茨城新聞社主催)受賞. 茨城県潮来町名誉町民任命
1993年 国際ジェマイユ・ビエンナーレ グランプリ受賞
1995年 フランス芸術院よりグラン・ド・メダイユ・ドール(栄誉大賞)授与, 日本国より勲四等旭日小綬章授与
1996年 茨城県の特別功績者表彰
1997年 フランス国家より シュバリエ・ド・レジヨン・ドヌール勲章授与
2000年 画業60年記念回顧展
2006年 米寿記念展として国内各地にて村山密展
2013年 10月22日逝去

自然と対話し、日本の心でパリを詩う。フランス画壇の重鎮として活躍した。

◆須田剋太(1906-1990)
 
「舞妓」油彩/紙/3号
作品サイズ27.0×24.0cm 額サイズ:45.0×42.0cm

須田剋太《すだ こくた》

1906年 埼玉県北足立郡吹上町(現:鴻巣市)で、須田代五郎の三男として生まれる。本名 勝三郎。
1927年 埼玉県立熊谷中学校(旧制、現・埼玉県立熊谷高等学校)卒業。その後浦和市(現:さいたま市)に住み、ゴッホと写楽に傾倒する。東京美術学校(現東京芸大)を4度受験するもいずれも失敗。独学で絵を学ぶ。
1936年 文展で初入選。
1939年 文展で「読書する男」が特選。
1949年 抽象絵画の旗手長谷川三郎と出会い、国画会に入り抽象画の道へ進む。
1950年 森田子龍編集の「書の美」に論文を発表する。以後「墨美」や墨人会同人との交流を通して書に深く傾倒。
1955年 第3回日本抽象美術展に出品。
1957年 第4回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に出品。
1960年 第1回個展(大阪フォルム画廊)。
1961年 現代日本絵画展に出品。カーネギー国際現代絵画彫刻展(アメリカ)に出品。
1962年 西宮市民文化賞を受賞
1971年 司馬遼太郎に同行しながら、「街道をゆく」の挿絵を描き始める。
1983年 「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。
1990年 7月14日午後5時28分、兵庫県神戸市北区の社会保険中央病院にて84歳で死去。
1990年 油彩画45点、グワッシュ320点、挿絵1858点の計2223点の作品を大阪府に寄贈。

当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、1949年以降抽象画へと進む。力強い奔放なタッチが特徴。司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿絵を担当、また取材旅行にも同行した。道元の世界を愛した。

※引用文献:ウィキペディアフリー百科辞典

◆中山 巍(1893-1978)
 
「緑蔭」油彩/キャンバス/F20号/昭和21年作
作品サイズ:60.6×72.8cm 額サイズ:81.8×94.3cm


「横顔」油彩/キャンバス/4号
1951年(昭和26年)9月作

中山 巍《なかやま たかし》

1893年 岡山市生まれ
1914年 東京美術学校入学 藤島武二に師事
1918年 帝展に初入選
1919年 東京美術学校卒業、東京美術学校研究所進学
1922年 渡仏しブラマンク、シャガールに師事
1926年 サロン・デ・ザンデパンダン出品
1928年 パリのズボロウスキー画廊で個展
1928年 二科展に滞欧作出品、二科賞受賞
1930年 協会展に滞欧作出品、協会会員、二科会会友
1930年 独立美術協会設立に参加
1946年 女子美術大学教授に就任
1952年 日本芸術院賞受賞
1970年 紺綬褒章受賞
1978年 84歳にて没

主な収蔵美術館:東京国立近代美術館/東京都現代美術館/東京都立美術館/板橋区美術館/愛知県美術館
/愛媛県立美術館/玉川近代美術館/大原美術館/岡山県立美術館/ウッドワン美術館、他

清風深緑の中で無邪気に遊ぶ子供達。制作された1946年(昭和21年)は、終戦の翌年に当たり日本が平和に向かって歩み出した頃の作品。爽やかな森の木陰で遊ぶ子供たちを描くことで、夢と希望に満ちた日本の未来が感じられる作品。1999年岡山県立美術館特別展図録でも分かるように1945年~6年は現存数が少なく希少。おそらく当時の展覧会に出品された作品と推察される。「横顔」はいかにも中山らしい女性像の秀作。

◆伊藤久三郎(1906-1977)
 
「作品」
油彩/キャンバス/F4号


「作品」
紙/パステル/38.5×26.5

伊藤久三郎《いとう きゅうざぶろう》

1906年 京都に生まれる。
1928年 京都市立絵画専門学校(日本画)卒(現京都芸大)
1929年 1930年協会研究所にて学ぶ。ニ科展入選。その後
新美術協会出品又ニ科会内の前衛的傾向作家達と九室会の創立会員となる。
1943年 初の個展を銀座資生堂で開く。戦時中は京都に帰り、行動美術展に参加。同会を中心に活躍をしていました。
1957年 第4回サンパウロビエンナーレ展に出品。以後、成安女子短期大学教授となり、晩年は画壇とは没交渉の姿勢を貫き、自己の世界で自由に孤高の制作を続けました。
1976年 京都府美術工芸功学者に選定。
1977年 死去。
1978年 京都市立美術館にて遺作展。
1995年 O美術館(東京品川)にて、 伊藤久三郎(1906-1977)透明なる叙情幻想展。
2004年 爾麗美術にて幻想・叙情的抽象画の先駆者 伊藤久三郎(1906-1977)展。

主な収蔵美術館:京都市立美術館/京都国立美術館/東京近代美術館/東京板橋区立美術館/大川美術館(群馬)/ 横須賀市立美術館他

「古いものが本当にわかる人なら 新しいものもわかる」
(伊藤久三郎)

 日本の抽象洋画の先駆者として、京都画壇における抽象絵画の草分け的存在として重要な足跡を残した伊藤久三郎は前衛風な鋭い試みの中にも粗けたところがなく、むしろ柔らかく優しさのある詩情的なハーモニーが印象的です。
 戦前に影響を受けたシュルレアリスムをベースにしながらも自由に自らのイマジュネーションをはばたかせ、一貫して清冽なまでの香気と叙情をたたえた絵画で知られています。今は忘れ去られた印象があるが、いつか再評価がされてしかるべき画家であると思います。今見ても、シュールで新鮮。彼の作品は滅多に出ません。
(お知らせ)
彼が幼少時代(主に小学校)に描いた作品を一括入手しました。
ご興味ございましたらお問合せください。

◆原 勝四郎(1886-1964)
 
「南紀白浜風景
油彩/キャンバスボード/F3号/昭和32年夏作/
原勝四郎画集刊行会「証」シール付

原 勝四郎《はら かつしろう》

1886年 和歌山県田辺市に生まれる
1904年 田辺中学卒業
1914年 白馬会溜池研究所に通う
1917年 渡仏。パリのアカデミー・グラン・ショミエール等で油絵を学ぶ
1917年 帰国、第8回二科展出品。以後、1943年まで出品を続ける。
1940年 第27回展岡田賞受賞。1931年 西牟婁郡瀬戸鉛山村(現在の白浜町)に転居。
1948年 第2回二紀展に同人として出品。以後1960年(昭和35年)まで出品を続ける。
1953年 第7回展同人努力賞
1959年 第13回展同人優勝
1964年 死去。享年78才。

 明治19年(1886)、現在の田辺市に生まれる。和歌山県立田辺中学校を卒業し、明治38年(1905)洋画家を志望して上京、東京美術学校や白馬会研究所で学ぶが、ヨーロッパで学びたいという想いが高まり渡航を決意する。しかし、第一次世界大戦の最中で旅券は発行されず、学資も充分なものとは言えなかった。一時帰郷するが、渡航の決意は固く、大正6年(1917)シンガポールまでの旅券の交付を受けて出国、サイゴンから船員に雇われてフランスに入った。パリにたどり着くが、戦争の影響でたちまち生活苦に陥る。画学校へ通えたのはごく短い期間で、以後は貧困のなか、フランス各地、イタリア、北アフリカを様々な仕事をしながら放浪する。途中マラリアにかかり、力尽きて病院に収容されるようなこともあった。友人の画家たちの支援でパリに戻り、大正10年(1921)帰国する。不本意な滞欧生活であったが、同じ時期に留学した画家たちやパリの画学生たちとの交流、美術館で接した巨匠たちの作品、そして生存の限界にあっても、なお描かずにはいられない自分自身を発見したことは、その後の芸術を形成する大きな要素となった。
 帰国後は、郷里にもどり、近隣の風景や自画像、家族の肖像、バラを中心とした静物など身辺の自らが愛したものを主題として制作した。昭和15年(1940)二科展で岡田賞を受賞し、翌年会友に推挙される。戦後は、二科会の再建に加わらず、二紀会に同人として参加した。
 原勝四郎は昭和39年(196478歳で亡くなったが、鮮やかな色彩で筆触の効果が充分に活かされた生気あふれる作品は、いまも多くの人々の心をとらえて離さない。 (ホームページ「和歌山県情報館」和歌山県知事室広報課)  

 原勝四郎作の『南紀白浜風景』です。和歌山県出身の作者は後年、近隣の風景や自画像、家族の肖像、バラを中心とした静物など身辺の自らが愛したものを主題として制作しており、こちらも故郷の風景を描いたものです。鮮やかな色彩で筆触の効果が充分に活かされた生気あふれる作品です。


◆平野 遼(1927-1992)
 
「N夫人像」油彩/キャンバス/8号/1980年
作品サイズ:45.5×37.9cm 額装サイズ:62×54.3cm 

平野 遼《ひらの りょう》

九州小倉を拠点に活動し、現代の苦悩を卓抜な筆力であらわした洋画家。
大分県生。独学で絵を学ぶ。上京し、新制作展・自由美術家協会展に入選。糸園和三郎、小山田二郎、瀧口修造らの知遇を得る。第5回現代日本美術展に「修羅A」「修羅B」を出品するとともに、前年の第25回自由美術家協会展出品作「像」を第5回安井賞展に出品する。

同39年9月、麻生三郎、糸園和三郎、森芳雄らと共に自由美術家協会を退会して同年10月主体美術協会を設立。以後、同展のほかに、現代日本美術展、安井賞展等に出品したが、同50年主体美術協会を退会して無所属となる。

同53年6月ヨーロッパへ旅し、スイス、イタリア、オランダ、東欧等を訪れる。同54年7月には中央アジア、同年9月には、東独、チェコ、オーストリアへ旅行。その後も、トルコ、ギリシア、スペイン等を訪ね、晩年は海外への旅が多くなった。

画業の始めから一貫して興味の中心は人間、特に自己の内面にあり、最初期には写実的具象画も描いたが、昭和30年代に抽象的作風へと移行、晩年にはデフォルメされた人体像による象徴的作風へと展開、一貫して人間をモティーフとし、褐色、灰白色を基調にジャコメッティに傾倒した細い線による人体を表現で、深みのある作品を制作した。

平成4年(1992)歿、65才。


◆和田英作(1874-1959)
 
「風景」油彩/キャンバス/8号/1938年作
「東京美術倶楽部鑑定委員会」鑑定証付
作品サイズ:45.5×37.8cm 額装サイズ:63.2×55.8cm

和田 英作《わだ えいさく》

 1874(明治7)年に鹿児島県肝属郡垂水村(現垂水市)に生まれている。黒田清輝、藤島武二と同郷。父親が海軍兵学校英語教師となったことにともなって上京。やがて明治学院に学び、同窓の三宅克己らを通じて洋画に接した。また、島崎藤村とも同窓であり、のちにふたりは滞仏中に親しく交遊することになる。1891(明治24)年に明治学院を中退し、曾山幸彦、そして原田直次郎に本格的に洋画を学ぶかたわら、日本画家久保田米遷にも就いている。1894(明治27)年、原田の画塾鍾美館がやがて閉館になると、岡田三郎助の助言で、黒田、久米の指導する天真道場に移り、それまでの明治美術会系の暗い画面を捨てて、黒田や久米の作品に見られる明るい色彩の効果を貪欲に追求するようになる。このときの精進ぶりは、黒田の目にとまるところとなり、1896(明治29)年の「白馬会」結成に誘われ、同年開設された東京美術学校西洋画科の助教授に招聘されることになる。しかし、和田は同職をいったん辞し、同科選科4年級に編入しなおし、卒業制作「渡頭の夕暮」(1898)を描いている。
 訪欧の機会は意外なかたちでやってくる。ウィーン出身のコレクターであるアドルフ・フィッシャーの二度目の来日(1897-99)のあいだ、和田は、日本各地を案内役として随行することになる。その間に収集した美術品を整理して目録化するしごとを頼まれ、ベルリンを訪れることになったのである。こうして和田の手によって整理された作品六百余点が、翌年1月にグスタフ・クリムトを会長とするウィーン分離派の第6回展(日本美術展)で公開されたのだった。ベルリンでは歴史画家アントン・ヴェルナーが君臨する大ベルリン展を、またマックス・リーバーマンに率いられたベルリン分離派展をも訪れている。和田は、当然ながら、ベルリン分離派への共感を黒田に宛てて綴っている。
 1900(明治33)年3月には、文部省留学生に選ばれ、パリに赴き、ラファエル・コランに師事している。万国博覧会会場のひとつグラン・パレに旧作「渡頭の夕暮」「機織」が並んでいるのを確かめ、日本からやってきた浅井忠と合流し、秋にはグレーでふたりで共同生活を送ることになる。1902年には「思郷」でル・サロンに入選。これは五姓田義松、藤雅三、黒田につぐ快挙となった。しかし、入選作以上に師コランに評価されたと伝えられる「こだま」のほうが、モデルをニンフの「エコー」に見立てた神話的裸体画であり、サロン画の枠内にとどまりながらも、世紀末的なエロスを湛えるものであった。
 1903(明治36)年に帰国。滞欧中にウジェーヌ・グラッセについて学んだデザイナーとしての才能もアール・ヌーヴォーのスタイルで発揮し(たとえば『藤村詩集』1904年、春陽堂刊、の装丁など)、「白馬会」の中心メンバーとして力作を発表するものの、ふたたび穏健堅実な作風にゆっくりと戻っていった。1932(昭和7)年から四年間、東京美術学校校長を務め、1943(昭和18)年には文化勲章を受章。晩年は、むしろ教育者として評価すべきであろう。1934(昭和9)年に、文部省が大学生のバー、カフェの出入りを禁じたことにたいして、「酒と女」は美術教育に必要として美術学校の例外措置を申し出たというエピソードこそ、世紀末のベルリンとパリを身をもって体験した和田の最後の勲章というべきかもしれない。1959(昭和34)年、静岡県清水市で死去。享年84歳。(水沢勉)

(株)美術出版社発行の「近代日本美術家列伝」より抜粋転記


◆佐分 真(1898-1936)
 
「風景」油彩/板/8号
「東京美術倶楽部鑑定委員会」鑑定証付

佐分 眞《さぶり まこと》

 大正期昭和期に活躍した日本の洋画家。レンブラントの影響を受けリアリズムに傾倒した堅実な画風を築いた。
長男は慶應義塾大学名誉教授でフランス文学者の佐分純一氏。

1898年 名古屋市に生まれる。父・佐分慎一郎は第六代一宮町長。母・たまは元芸者。
1915年 上京して川端画学校で学ぶ。
1922年 東京美術学校西洋画科を卒業。土屋しげ子と結婚
1924年 第5回帝展に初入選。
1926年 妻、しげ子死去。
1927~1932年 二度にわたり渡仏。藤田嗣治、佐伯祐三、久米正雄、長岡輝子らと交流。
1931年 帝展に出品した「貧しきキャフェーの一隅」が特選となる。帰国後の1933年、34年に連続して帝展特選を受ける。
1936年 東京西ヶ原の自宅アトリエで遺書三通を遺し死去。多磨霊園に葬られる。


◆三上知治(1886-1974)
 
「印度洋のなぎ」油彩/板/4号
サイズ:28cmx22cm 額サイズ:48cmx43cm

三上知治《みかみ ともはる》

 三上知治は明治19年(1886)12月10日、東京に生まれ、明治35年(1902)9月10日、小山正太郎の洋画塾不同舎に入舎、ひき続き太平洋画会研究所に学んだ。明治40年第1回文展から出品(「松並木」)し、同41年には太平洋会会員となっている。第2回文展「時雨ふる日」、第3回文展「三輪」と連続入選、第3回展では褒状をうけ、さらに第5回展では「初秋」で褒状をうけている。大正3年大正博覧会に「湯ヶ島」出品、褒状、大正11年平和記念博覧会では「豕の母子」で銀賞をうけた。大正13-14年(1924-25)ヨーロッパに遊学し、フランス、イタリアに滞在。帝展には大正12、13年を除いて毎回入選、昭和3年(1928)第10回帝展で特選となり、同5年無鑑査に推薦された。昭和11年、海軍館に「蘇州空中戦の図」を制作、同13年従軍して中国に赴いた。昭和17年、舞鶴海軍館に「マライ沖海戦」「アリューシャン上陸の図」などを制作、その間太平洋美術学校で後身の指導にもあたった。戦後、日展審査員をつとめ、昭和22年に示現会を結成、その代表者の位置にあった。

1886年 明治19年 東京生まれ、不同舎、太平洋画会 研究所に学ぶ。
1908年 太平洋画会会員、昭和5年帝展無鑑査、昭和9年・10年文展で褒状。
1913年 渡欧、従軍画家として戦地へ赴く、22年平和記念東京博覧会、示現会創立会員。
1939年 日本水彩画会名誉会員。
1949年 東京で歿。87歳。
作品収蔵/京都市美術館他


◆松下春雄(1903年3月2日 - 1933年12月31日)
 
「海岸風景」1930年作/油彩/板/4号
画寸:23.5×33cm 額寸:40.5×49.5cm

夭折の画家-松下春雄《まつした はるお》

 大正~昭和初期に美術グループ「サンサシオン」で鬼頭鍋三郎らとともに活躍した洋画家である。
30歳の若さで夭折した画家、松下春雄は 大正10年(1921)年上京し、本郷洋画研究所に学んだ。大正12年(1923)の関東大震災を被災して帰郷、鬼頭鍋三郎、中野安次郎らとともに美術研究グループ「サンサシオン」を組織し活動した。このグループに詩誌「青騎士」の春山行夫も加わっていた。
 春山行夫を誘い、翌年再び上京した松下春雄は、この年の第5回帝展に水彩画が初入選し、以後15回展まで連続して入選した。第9回展からは油彩画を出品。第12回展では特選を受賞し、同年の「光風会」では会員に推挙されるなど中央画壇での活躍には目ざましいものがあった。その一方で郷土・愛知との交流をはかり、一時期「愛知社」の同人として後進の育成にも尽力した。
 帝展を中心に活動を展開し、将来を嘱望されたが昭和8年(1933)30歳のとき白血病のため東京で夭折。その翌年の第15回帝展では遺作が特選を受賞した。

1903年 愛知県名古屋市に生まれる。
1918年 人見洋画塾で学ぶ。
1921年 上京。本郷絵画研究所で学ぶ。岡田三郎助に師事。
1923年 関東大震災をきっかけに名古屋へ帰る。鬼頭鍋三郎らと美術グループ「サンサシオン」を結成する。
1924年 第5回帝展に水彩画が初入選し、以後15回展まで連続して入選。第9回展からは油彩画を出品。第12回展では特選を受賞。同年の「光風会」では会員に推挙される。
1933年 白血病で死去する。30歳。
翌年の第15回帝展で遺作が特選を受賞。





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